北村峰月の俳句会
京都市国際交流会館で傷心のままの句会であった。喪服を着 たままの方、着替えの喪服を持参の方といろいろである。 輝き伸びてゆく雲の峰である先輩諸氏を詠んだ」と評され、呂 仁 副主宰に特選をいただき 仁 副主宰に佳作を頂き 互選も 四名の方に選を頂いた。 ではないのです。 と出したのですが、御二方が選して頂けました。 ました。 る。このお顔にお会いするために出席しているのではないかと 思う。本当はいかに「都峰俳句」に近づいて特選 佳作を貰う ためなのですが。 あいました。お互いに 人に迷惑を掛けたら駄目だから行ける ときに行く人だったのです。 季語がありませんでしたので。 時、石畳の通路の何処かから穴を開けて出てきた生まれたて の蝉が歩いていた。同じくお手伝いをされていた吉田星子さん が「その蝉 先生かも しれない。」「蟻にやられないうちに木に 登らせてやって」とぽつんと言われた。その蝉を柔らかく大切 に摘まんで青葉紅葉の幹に掴らせようとしたが、直ぐ落ちてし まった。しかたなく植垣の樫の木に掴らせて持ち場に戻った が。その時 先ほどからの疑問が浮かび上がってきた。お通夜 のお手伝いの始まる前に先生の戒名をさっと読んだ時 蝉 ? 閑蝉 ? なぜ蝉の一字が入っていたのかという 疑問であった。 確かめるため仏前に行ってみた。そうすると喪主である先生の ご息女が、「父は生前より芭蕉翁が好きで敬愛していましたの でそれから俳句を始めました、芭蕉翁の奥の細道の御句の中 で 閑かさや 岩にしみ入る 蝉の声 から戒名を付けて 頂きました」 とおっしゃいました。やはり あの蝉は先生だった のかな。そして告別式の朝早く羽化をして大空へ飛んでいか れたのではないだろうか。 である。
枯芦を 円く倒して 釣りの座に 峰月
2004.12.05 読売新聞 豊田 都峰 選 佳 作
福笹に 附けたるものの みな弾む 峰月
2005.02.01 読売新聞 豊田 都峰 選 二席 入 選
菜の花の 土手の向かふの 酒の蔵 峰月
2005.03.13 読売新聞 豊田 都峰 選 佳 作
寄席跳ねて 単衣に深き 座り皺 峰月
2005.07.17 読売新聞 豊田 都峰 選 佳 作
夏草や 清和源氏の 末の墓 峰月
2005.09.04 読売新聞 豊田 都峰 選 佳 作
崩れ簗 ときをり雑魚の 上りけり 峰月
2005.11.29 読売新聞 豊田 都峰 選 佳作
遠足を 先に行かせて 紅葉狩 峰月
2005.12.18 読売新聞 豊田 都峰 選 佳作
これらが 初学の頃の 投句で 都峰先生の選を受けたもので
ある。 わたしはまったくの誉められて伸びるタイプなのです。
暫く 投句 入選 没句 の 都峰先生との 文通が始まったよ
うなものである。そして 何処かで俳句を教えて貰えるところは 無いですか とお尋ねして、それなら 本部句会が ここそこで あるからいらっしゃいとのお言葉を頂き厚かましくも 和子さ ん、境さん夫婦、俊夫さん達が居た 上手 左翼 に 陣取りま した。
2006年 平成18年 9月03日 のことです。
実は 京鹿子の繋がりは 鈴鹿野風呂先生が 京都新聞の選
者のときで 私が中学二年のとき 確か 「昼下がり 初雪とけ る 音のする」 が 先生の選で 佳作を頂いたことがありまし た。
その後は投句しても駄目、投句しても駄目 で知らないうちに
俳句から遠のいておりました。 平成16年9月に悪性リンパ腫 になり、父も肺癌 娘も18才で 肝臓癌で亡くしていましたので 辞世の句を作ろうかと 腹を据えて
野分明け なお風鈴の 鳴り止まず 峰月
季がさなりでした。 また作り直しましょう。
癌告知 秋風鈴の 鳴り止まず 峰月
まったくの 辞世 の 句 です。
入院した その日 の日記には、 遺言があります。
御影石作りの 特等三角点を 創り それに辞世の句と 代表
作を欲張って二句ほど彫ってもらおうかな。そんな句碑が欲し いです。俳句をしている者の夢ですからね。
これとは別に 「句碑の里」 というのが 山梨県 見延市中富
町の役場に申し込めば、町づくり町おこしプロジェクトとして三 万円くらいで作り、建立して下さるとか。平成26年12月現在 1200基ほどとか。96番は 桂 米朝 「法善寺 ぬけて帰ろか 春の雨」 102番小澤昭一 103番 柳家小三治 105番は 永 六輔 「寝返りを 打てば土筆は 目の高さ」 ここに先ず 仲間入りしたいですね。
それと句集ですね。 俳句界の編集部 で作ってもらいましょう
か。 第一集くらいは いや 第二集までは生きている間に作 り 発売 ? しましょう。 話は大きく膨らんで 大きな夢となって きました。 いや 句碑は 北村 峰月先生の お弟子さんに 建立していただくのが 正当ですね。
このホームページの俳句欄を原稿にしてくだい。
京鹿子40部とやなぎ庵 渋柿15部 の貰ってくれる人に。そし
て各一部ずつ 俳句界 俳句 俳句あるふぁ NHK俳句 現 代俳句協会 義仲寺無名庵 大阪俳人クラブ 京都俳句作家 協会 若狭の源流の元主宰 ロマネコンテソシェーション マ スヤのOB 20部、聖和の人と染屋さん 得意先 出入りの人 に25部 あと各一部ずつ 醒泉 郁文 堀川 の同窓会 学 校 図書館 京都市 京都府 国会図書館 京都新聞 読売新 聞 朝日新聞などに寄贈して下さい。全部で二百部くらいか な。いや この調子なら千部は要りそうですね。
葬式の香典返しにしましょうか。そうならもっと要りますね。お
金が出来るまで死ねません。この句集が 世間で取り合いで 売れるようになるよう頑張ります。北村透谷の裔の俳人として 名前が売れなくてはなりません。句集の印税で葬式しましょう か。長生きできますね。それまで死ねないのですから。
墓碑の句碑は お寺は 等泉寺さんにお願いして 墓地の端
の一角に。 北村家の 墓の近くに 建てて欲しい。
その お墓には 千恵子の お骨を 分骨して
一緒にしてほしい。
お葬式は 必ず 香典は 受けて 助けてもらって
こじんまりとしてほしい。香典返しは決まったし。
海外旅行に もっと 行ったらよかったなあ。
聖和の 小売の 事業部を 成功させたかった。
会員制の 赤ちゃん本舗のようなもので、
素人さんに喜んでもらえるような。
仏壇を 守ってほしい とか。
2010.11.09 15773句
2012.02.25 18876句 多読多作多捨
2012.11.06 21764句
2013.02.10 23000句
2013.11.05 26492句
2014.03.27 28589句
2014.06.27 29867句
三万句達成 2014.08.08 30281句
2014.10.16 31292句
2015.01.18 32272句
2015.03.18 33033句
2015.06.22 34177句
都峰先生との関連が薄くなってきました。いやいや この多作
は都峰先生の 薫香を頂いております。 先生が 峰月さんは 良い時はびっくりするような素晴らしい句があり、実に平凡な あれっと言うような句が波のようになっていますね。また 私の 城南宮句会の主宰にふれては 現在何人ぐらいお弟子さん がいますか。そうですか、それなりに大変ですね。人に教える ということは。 としみじみと言われたことがありました。
鉢の木に 蝉来て追はず 師と思ふ 峰月
文責 北村 峰月
ころから飛び出してきた唄があった。手まり唄であった。またそ れからの関連で数え唄を思い出した。誰に聞いて、誰に伝え たのか。なんと明治の頃の唄もあった。 れてどこから どこまでとんでった 垣根をこえて 屋根こえて おもての通りへ とんでった とんでった 箱 供ぞろい お駕籠のそばには ひげやっこ 毛槍をふりふ り やっこらさの やっこらさ で 日がくれて 一年たっても 戻りゃせぬ 三年たっても 戻り ゃせぬ 戻りゃせぬ んでした。 勿論五番まであることも。 の他オンラインのお陰です。 ちゃとして普及してからは、正月だけでなく通年の遊びとなっ た。そのリズミカルな運動にあわせた、さまざまな歌が作られ、 童歌として各地に伝わる。 日露戦争や、明治中・後期に話題になった文芸作品に題材を 取ったものが多く残るのは、子供の遊びとして広く普及してか らと思われる。歌の最後でスカートで手まりを隠したり、後ろ手 に取ったりなど様々な「フィニッシュ」をとることが多い。1950年 代までは、路地で手まり歌を歌いながら毬をつく少女の姿が見 られたものだが、路地にも車が入るようになり、また、テレビや 携帯ゲームが普及して、子供が戸外で遊ぶことが少なくなった ことから、今ではほとんど忘れられている。 灯」の発刊祝いの席で、「自由新聞」の記者 植木枝盛の作っ た「民権数え歌」が合唱された、とあります。 この人権よ か この無理なこと −5 という構成ですネ。 アンダーラインした部分は前半・後半 ともほゝ同じ旋律の繰り返しです。 一方 「ひとつとせ」の方は、 前半 5−7−5、後半 7−5−5 と中間に繰り返しの無いの が基本形であり、「コノ」とか「テモ」で始まる最後の繰り返しで 旋律が収まります。 最初の例もそうであったように、数え歌の 文句は 「ひとつとや」 と 「ひとつとせ」 両方の旋律に当てはま るものとされていたのではないでしょうか。 これぞ俳諧に通じ るのではないかと。 熊本さ 熊本どこさ 船場(せんば)さ船場山には狸がおってさ それを猟師が鉄砲で撃ってさ 煮てさ 焼いてさ 食ってさ それを 木の葉でちょいと隠(かぶ)せ 船場川にはえびさがおってさ それを漁師が網さで捕ってさ 煮 てさ 焼いてさ 食ってさ く、「うまさのさっさ」になっている場合が多々あり、実際、歌の 舞台となっている船場橋(路面電車の駅名としては洗馬橋の 漢字表記となっている)一帯でも「うまさのさっさ」の歌詞で広く 伝わっているため、こちらが原型であるという説もある。 した てんてん 手まりはどこでつく 梅のお花の 下でつく 下 でつく ある だんだん かぞえて二十段 段の数ほど つきましょう つきましょう 比羅さん 四は信濃の善光寺 五つ出雲の大社(おお やしろ) 六つ村々鎮守様 七つ成田の不動様 八つ 八幡の八幡宮 九つ高野の弘法さん 十は東京招魂社 これだけ心願かけたなら 浪子の病も治るだろう ごうごうご うと鳴る汽車は武男と浪子の別列車二度と逢えない汽車の窓 鳴いて血を吐くほととぎす で所の氏神さん/東京泉岳寺/東京本願寺、など様々なバリ エーションが地域ごとに見られる。 しあやぶったかまつまんごじょう、せったちゃらちゃらうおのた な、ろくじょうひっちょうとおりすぎ、はっちょうこえればとうじみ ち、くじょうおうじでとどめさす 角・蛸薬師・錦・四条・綾小路・佛小路・高辻・松原・万寿寺・五 条、雪駄屋町(今の楊梅通)・魚の棚、六条、七条・八条・九条 の横の通りをうたう。なお、様々なバージョンが存在し、これが 正しいというものではない。 シヤの兵、 死んでも尽すは日本の兵 五万の兵を引き連 れて、 六人残して皆殺し 七月十日の戦いに、 哈爾浜 (はるぴん)までも攻め破り クロパトキンの首を取り、 東 郷元帥万々歳 歌。 最後の語句が、最初の語句に戻り延々ループするしりとり 歌になっているのが特徴で、手毬歌や縄跳び歌として歌われ た。しりとり歌であるため、 「野蛮国(架空の国?または当時 のロシアは大国ながら民度の低い国とされ「野蛮国」とも言わ れたとも)」、 「土瓶の口(砲台のことか?)」、 「金の玉(財 宝?、弾丸?、睾丸?)」 「チャンチャン棒(鈴のついた棒,当 時の清国人への蔑称チャンチャン坊)」 「犬格子[1]など若干 意味不明な語句が連なっている。 パトキン、金の玉、負けて逃げゆくチャンチャン棒(坊)、棒で 叩くは犬格子(犬殺し)、シベリア鉄道長けれど、土瓶の口から 火を噴けば、バルチク艦隊壊滅し、死ぬ気で尽すは日本の、 乃木さんが、凱旋す… のも多い。言葉遊び的な要素もある。 たとえば一をひとつと 読むのを人にひっかけ、歌詞を紡いでいくような感じである。 いられたと言われ、『古今和歌集』仮名序に「かぞへうた」、 『倭?歌譜』には「計歌」として記載されている。近世に入ると、 和歌・神事祭文より、浄瑠璃・庶民歌謡まで幅広い分野で行わ れ、童歌としては 手毬唄・御手玉唄・羽根突唄と組み合わさ れて発達した。 いは順番に指差し、最後の一音の時に指を差している方に決 定するというもので、「どちらにしようかな 天の神様の言う通 り」が一般的である。 ころもある。「天の神様」は「天の」が省略され「神様」だけだっ たり、「天神様」「裏の神様」だったりもする。この後に続く言葉 はさまざまである。 アレンジが加えられていることも多く、地域ごとにバリエーショ ンが異なっていることも多々ある。 改変されることもしばしばあり、常に新しいバージョンが作られ ていると考えられる。 こくさんがつーいたほう。えっさっさ。えっちらさ。どっこいしょ。 焼けたかな あかとんぼ しろとんぼ」 「どちらにしようかな 天 の神様の言う通り つのつのこつじ おやじのはげあたま」 ーめんそーめん中華そば 赤豆白豆なんの豆」 うまい豆」 「どちらにしようかな 天の神様の言うとおり 鉄砲 撃ってバンバンバン」 のべの柿の種 電車に轢かれてぺっちゃんこ」「どれにしようか な 天の神様の言うとおり あべべのべのべのべの抜けた」 ッポロポンのアブラムシ」 柿の種 種鉄砲打ってバンバンバン もいちどおまけにバンバン バン」 柿の種 猫のしっぽだよ」 「どちらにしようかな 天神様の言 う通り なのなのな おべべのべっかにしようかな」 な 鉄砲撃ってバンバンバン もうひとつおまけにバンバンバン」 シ」 っこんしましょうか」 撃ってバンバンバン もひとつうってバンバンバン」 トバイ 柿の種」 しの柿の種」 こなあし オッピッピのピ 玉手箱 ひまわり」 「どれにしようか な 神様の言う通り ちっきちっちきちっちっち 合わせてぴょこぴ ょこちっちきち ちゅうちゅうたこかいな」 ちゅう・たこ・かい・な」が「2・4・6・8・10」に相当する。なお、この 数え方は地域によって微妙に異なり、 「ちゅう・ちゅう・たあ・ かいの・とう」(京都)、 「ちゅう・ちゅう・たま・かいの、じゅう」 (大阪)などがある。 れており、怪談『牡丹灯籠』が演じられる際にも用いられること がある。 ている。 に)」まで遡る。「重二」とは、平安時代に流行っていた双六で 用いられていた用語で、2のゾロ目のことであった[1]。その後、 読みは清音化されて「ちゅうに」「ちゅう」と変化したと言われて いる。 代表例である蛸の足とを掛けたとする説である。なお、先の新 聞には掲載されていないが、「かいな」とは上腕部を意味する 古語であり、「たこ・かいな」を合わせて「蛸の足」とする派生解 釈も存在する。 い)」(和歌山県) ーンライト(en:Red light, green light)がある。遊び方にはいろい ろな変種があるが、基本的には参加者は鬼から離れたところ からスタートし、最初に鬼に触った人が勝ちとなる。ただし動く ことができるのは鬼が後ろを向いて「グリーンライト」(青信号) と言ったときだけで、鬼はいつでも突然振り返って「レッドライ ト」(赤信号)と叫ぶことができ、このときただちに静止しないと、 その参加者は失格になる。 っと鬼に近付いていく」という点で、日本のだるまさんがころん だによく似ている。一方、顕著な違いとして、日本のだるまさん がころんだでは鬼にならないことが参加者の目的であり、参加 者らは鬼でない「みんな」の中にとどまろうとし、敗者が次の鬼 となるのに対し、レッドライト・グリーンライトでは鬼になること が参加者の目的であり、参加者は「みんな」と違う特権的な信 号灯役になろうとし、勝者が次の鬼となる。 だ」、 中国では「一、二、三、(我?都是)木?人(木頭人。(私た ちはすべて)『木の人形』の意)」、フランスでは「アン、ドゥ、トロ ヮ、ソレイユ(1、2、3、太陽)」fr:Un, deux, trois, soleil、スペイン にはes:Un, dos, tres, chocolate ingles、という掛け声で日本の 『だるまさんがころんだ』とほぼ同じである。 見た事がない。 何のために有るのか。 ああ、山のてっぺん にあるやつやろう。 す。以前は山頂にあったのですが、見晴らしが悪くなったのか 測量条件が変ったのでしょうか。 富士山頂には二つの 二等三角点があり、余りにも高い所なので重要な一等三角点 ではありません。 一等三角点を置きそこから三角測量で 一辺と2角を定めれ ば二辺の距離が分かります。 誤差をなくする為基線を全国に 14箇所設けそこからも実測して精度を上げている。大体45Km 間隔に測量条件の良い山に 一等三角点「18cm角」を置きさ らに必要に応じて25Km間隔に一等三角点補点「18cm角」を、 その三角の網の中に二等三角点「15cm角」を8Km間隔に、さら に三等三角点「15cm角」を4Km間隔。さらに精度を上げるため に四等三角点「12cm角」を2Km間隔に設置している。 を書き川を書き、学校、役所、消防、警察、病院などを書き入 れると二万五千分の一の縮尺の地図ができます。大都市部な どではさらに一万分の一の地図が作られています。 を研究します。太平洋マントルはユーラシアマントルの下へ入 っていっていますので確実にハワイ諸島も日本のほうへ一年 に何センチか近づいています。一億年ほど長生きすればハワ イへ泳いで行けます。泳ぎの苦手な方は さらに長生きしても らえば歩いて行けるでしょう。 ートル移動。沈下も一メートルほど変化しています。これも三角 点を 測量しなおして分かることです。かの伊能忠敬が歩測し て日本地図の元を作ったのですがあの棒の先に三角点を置 いておけばまたの歩測で異差が分かったのでしょうが。 のハワイでオプションで行ったキラウェア火山に1247mのメタ ル三角点。自由時間で行ったダイヤモンドヘッドに237mのメタ ル三角点。 三角点網があり、三角点が残されているのでしょうね。占領下 の台湾も日本国陸軍が 現地の方か 兵隊さんを使い、建て たのでしょうね。同じように樺太 千島 北方四島にもあるでし ょうね。 地図の無い空白地帯を埋めるための登頂を試みたものでした が。石標と測量の塔と測量機器を人が歩いて持って上がりまし た。明治の三角点は実にいい顔をしていますよ。手彫りで石の 頭の手触りのよい丸い角をもっています。 です。 す。最近は平地はドライブかサイクリングで。または歩かずに 登れる山を目指しています。出張で全国地方へ行くことが決ま るとまず今出川の地図屋さんへ行きそこの地形を頭に入れ呉 服屋さんから九キロの地名と名所を覚えます。 たものをを五十キロ使用してぼかし模様をつける本天目染め という着物は 五十キロ の引き粉を置いてピーンと引ける丈夫 な白生地を作るのに21デニール「21中」という細い糸を12450 本も使います。「21中」は9000mの長さの糸の重さが21gという 糸なのです。 そんな話をしながら本天目染めの着物を 売っています。 うです。つまり人間の魂の重さが21gと言うことなのです。だか ら太っていて悩んでいる方は安心してください。死ねば確実に 21gダイエットできます。まあ、生きている間にも一日二日食べ なければ二キロぐらいはすぐに痩せるでしょうが。 角点探訪です。地図を見ながら行くのですから合って当たり前 ですが、廃点になっていたり、移動したり、農道にあり邪魔だ からと削ったり、掘ってしまい花壇の縁になったりするので大 変です。ちなみに測量法で標石の破壊など機能を損ねる行為 をした者は、二年以下の懲役又は百万円以下の罰金に処せら れる。 点15cm四方柱。 四等三角点は12cm柱の顔を持っていま す。その下に基盤を敷き、防御石に守られています。しかし四 等三角点はメタルであったり、ボックスの中にセメント柱に陶器 の標識が有ったりします。また、設置場所も農道の真ん中であ ったり、役所や学校の庭や屋上にも、小学校や幼稚園に貯水 池あるときには変質者か不審者はたまたテロリストか。五等三 角点は2点残っています。測量点には水準点、多角点、図根 点などもあり 地図を作るのに必要です。 清水山、船岡山は三等三角点。沢山、桟敷山、花山山、桃山 に二等三角点。比良の蓬莱山、比叡山、地蔵山に一等三角 点。滋賀県は安曇川高島饗庭野に基線があり、函館山、旭 村、伊吹山、御在所山、蓬莱山、阿弥陀峰、雪野山に一等三 角点。いい顔してますよ。頬ずりをしたいほどです。やはり測 量条件がいいところは見晴らしのいいところです。 わり、これからは人工衛星を利用したGPSでの電子測量 が主 になっていくのでしょう。 を 127点踏破。 二等三角点は 5048点 のところ 183点踏 破。 三等三角点を31958点 を 1149点踏破し、 四等三角点 は 71898点 の内 3124点踏破。 です。 俳句は 32272句 ですが。 属。初めて夏期キャンプで行った卒塔婆山806m三等三角点が 第一号で、比良の武奈ケ嶽1214m二等三角点が第二号です。 それから五年間で 一等 28点 二等 36点 三等 144点 四 等三角点 4点 は まだ 四等三角点が少なくて 珍しい時代 でした。 合計213点。 に罹り一年半入院。ここで三角点は断念。社会復帰も出来る のかなという気持ちでした。 と眉山一等三角点に登って覚醒してしまいました。それから出 張毎に地図を買って全国制覇手前。沖縄だけがありません。 平成26年12月30日の京都新聞に大きい見出しで したり顔の 写真入り で、「三角点 1000 点 9 府県で 11年をかけて 踏破。」 の記事があったようです。おいおいたった 1000点で かよ。 と 私も少し 自慢したかった。 市の方で 定年後にGPS機器を持参して三角点を探しに来た 人がいると、三角点のある畑の持ち主 の おば様が 話して 下さいました。 片になったら 何処にでもある ただの御影石の欠片です。記 念にも 何にもなりません。欲しかったなら 御影石の採石所 か 砕石所に行かれたらどうでしょうか。嫌になるほど 同じよ うな物がありますよ。なんなら 私が 送ってあげますから、絶 対に 三角点は 破損しないようにして下さい。 行為をした者は、二年以下の懲役又は百万円以下の罰金に 処せられる。」の法律があるのですよ。 沖ノ鳥島西島に 三等三角点が。 国土の証拠のようなものです。テレビで 石原前東京知事がこ れは島だ。岩ではなく 立派な 島だ。と 世界にアピールして いました。 しょうかなと思っています。 一等三角点の大きさより 少し大 きくして、裏側に 辞世の句 側面に 俳句全国大会の 大賞 句、 もう片方に後世に残りそうな私の代表句。 正面は 特 等 三角点。 生きているうちに句碑にして貰える様な 名句を 作らねば。 大賞受賞も 名句も まだありません。句碑を建 てて呉れる人を 作らねば。 遠大なる 計画であり、望みです ね。 ています。 これからも下手な鉄砲も数打ちゃあ 当たる の精 神でがんばりますが、 これは まじ 本気です。 町の役場に申し込めば、町づくり町おこしプロジェクトとして三 万円くらいで作り、建立して下さるとか。平成26年12月現在 1200基ほどとか。96番は 桂 米朝 「法善寺 ぬけて帰ろか 春の雨」102番小澤昭一 103番 柳家小三治 105番は 永 六輔 「寝返りを 打てば土筆は 目の高さ」 ここに先ず 仲 間入りしたいですね。 入る前に必ず目と目が合うのです。 そうなのです。 町屋の 二階の軒端にちょこんと置かれている守り神様なのです。鍾馗 さんとは諸説あるのですが、中国唐代の実在の人物とされて います。 唐の初代高祖の時代に科挙に臨みますが、成績 はよかったようですがあまりにも魁偉な容貌が災いして不合格 になり、それを恥じて自ら命を絶ちました。それを耳にした高祖 が手厚く葬ったことに恩義を感じた鍾馗さんは後の時代、楊貴 妃との恋で有名な玄宗皇帝が高熱で寝込んでいた際に皇帝 の夢の中に現れて夢で玄宗を悩ませていた小鬼を退治してく れたとされています。玄宗は夢に出てきた鍾馗さんの姿を絵師 に描かせ、邪気を祓う力があるものとして広めさせました。以 上伝説に過ぎないものですが道教の思想にも入り、鍾馗さん は魔除けの霊力を持つものとして信仰され、それが日本に伝 来しました。道教では現世利益を重視する宗教で鍾馗さんも魔 除け、火除け病気快癒などありとあらゆる役目を負わされてい ったようです。現在では瓦鍾馗とは別に端午の節句、武者人 形、ねぶた祭りなどに、また学業成就の効験もあるとされてい ます。 町を歩いているといろいろなお顔、お姿の鍾馗さんに出会いま す。小鬼を踏みまた抱えて、目を見開いて剣をかざし・・・・。大 部分は関西を中心に。最も多く見られるのは京都の洛中洛外 の洛中に多くあり、約三千体あるそうです。 三条に売薬屋が新築したときに掲げた鬼瓦を見た向かいの家 の女房がにわかに心悪しく病に臥し、医師の言う。それに対抗 して瓦作りの鍾馗を屋根に置きたれば程なくこの女房の病気 全快。この話が京都中に広まり今に至ったようです。近江八幡 の「かわらミュージアム」には、文政十一年 の瓦鍾馗さん が 収蔵されています。 さんはその多くをお寺の周囲の家にあり、お寺に向けて置か れています。これはお寺がその霊力で魔物や鬼などよくないも のを撥ね返してしまい、その撥ね返ったものが周りの家に入っ てくるので鍾馗さんを置いて対抗しょうとしたものです。京都で はお寺も多く町中のいたるところにあります。瓦鍾馗の別に鍾 馗札があり、どちらが先か解りませんが紙の札では直ぐ破れ たりするので恒久的に置くためか、また山伏が瓦鍾馗では重 いので普及のためお札として配るために紙となったかは定か ではありません。 として遠州より三州の間に悉くあり。とあります。 現在でも大 阪「我孫子観音」宝塚の「大本山中山寺」で魔除け札として授 与されています。山伏などが東海道を中心に山陰道、西国 道、奈良路の宿場を売り札として売り配って行ったようです。 す。 多く、京都は圧倒的に小屋根に置かれるのが多いのです。発 見するポイントはお寺鍾馗さんと突き当り鍾馗さん、軒鍾馗さ んとなります。 に進むそうで、そこに突き当り鍾馗さんを置いてそれらを撥ね 返したようです。 ないよう、地所に入らないように、家の人に声を掛けたり写真 を撮る許可を得て下さい。 野上七軒、宮川町、西陣、伏見、島原などの花街では客寄せ に商売繁盛の神様にもなっておられました。京都市外では木 津、八幡、亀岡と街道に沿う宿場に多々見られます。また、関 東以西に多く京都に近くなるほど多くなります。これは京都が 発祥の地と言う事になります。 んになり、剣の代りに金銭や子供を抱く子宝、財富を招く神様 になられています。またこれらは商売上手の瓦屋が泥からひ ねり出した話かも。また、木箱におられる方がもっとも良いとさ れているので大工さんも板一枚噛んでいるのかもしれません。 いません。平安鍾馗、復刻鍾馗、桃山鍾馗などの種類が作ら れています。それを上京雨宝院、大将軍八神社、伏見の城南 宮などで祈祷して頂くとより効果がありそうです。 で必ず早朝に作業するとか、一度上げた古い鍾馗さんは効力 が無くなるとか。向かいの家に鍾馗さんがある場合は向きをず らすとかします。この辺も瓦屋さんの商売気が匂いますね。 んで貰えるだろうと自分の尺度で思い抜粋、引用させて頂きま した。小沢正樹さんは1961年生れ、愛知県から休みごとに遠 征して六年間で6000km歩き撮影、記録。見つけた鍾馗さんは 9500体。弊社の軒にも鍾馗さんがおられその効力は絶大あら たかで商売は儲からずとも細々と続けております。この本の P67 No.098 に手作りの の取材の御縁でこの本を頂きその御縁でこれを書かせて頂き ました。京都吟行の折にはあちこちきょろきょろして下さいせ。 「鍾馗さんを探せ! !」 麿、幕末から明治の絵師 河鍋暁斎なども取り上げています。 旗印に前田利家、本多忠勝、上杉氏の家臣 斉藤朝信など。 愛媛県松山市には鍾馗寺があり、厄病除け、子供の守護神と して。また 「日本陸軍二式戦闘機」の名前に。花では「鍾馗水 仙」というビガンバナ科の多年草で九月ごろ彼岸花に似た黄 色の花をつけます。 に「鍾馗鯊」がいて口の周りの髭から付けられています。本家 中国ではどうでしょうか。検索すると62万件ヒットしました。やは り画題としてよくあります。句材として使ってみるのも楽しいでし ょうね。益々の御精吟、御健吟をお祈りしています。 文責 北村 峰月
エッセイ 掲載 「父の事」 その 3 北村峰月
父は植物博士だったかと思うことがある。それは貧しきゆえに
博学であったのか。
少年は食べられるものなら何でも食べた。虎杖や酸葉、野苺、
木苺、郁子、通草、山ぶどう、桑の実などは誰でも食べた事が あると思う。青臭いだけのものであるが、茅花の若芽も食べ た。ぶどうの若蔓、犬槙の実、野ばらの新芽、すべりひゆ、麦 のガム、ピンクの花のかたばみの花枝、岩梨の実、ぐみ、「さ つきの耳だれ」は蜂の一種が葉に卵を産み葉が変質したもの も食べられた。少し酸っぱくてコリコリとして、たいして美味でも なかった。
笹の若芽もすぽっと抜いて柔らかなところを食べた。パンダは
あの硬い竹茎まで食べるとはすごい。同年代の仲間の子供に 特異な事をして見せて得意がっていただけかもしれぬ。特別お 腹が減っていた訳ではない。飢えていた訳でもなかった。多 分、誰の目から見ても私は変な子だったのだろう。「伊三さん の直ちゃんは何でも食べる・・・・。」と噂されていただろう。父は 伊三郎、私は直三が本名である。京都に転校してからも春、 夏、冬休みになればすぐに父の田舎に行き、休みの最終日に 京都に戻ってきた。同世代の従兄弟が十人ほどいた。今から 思えば、これこそ実は口減らしではなかったのだろうか。当然 料理をしてもらったのだろうけど、山芋のむかご、のびる、百合 根、春はつくし、たらの芽、ぜんまい、こごみ、わらび、まがり 竹、破竹、たけのこは自然の恵みであった。
春は這ひ 芽吹くを食す 昭和かな 峰月
夏は縞西瓜、虎真桑、黄真桑、菊真桑、トマト、胡瓜はなぜか
畦に生えていた。近くに愛知川、遠くは琵琶湖の乙女浜、新海 の水泳場へ泳ぎに行った。トマトは手でこすり、スボンの尻で 拭い、清潔にしてから食べた。
炎暑かな 屈めば盗れる 畑のもの 峰月
乾いた喉と空いた腹を満たしたのは手近かなものであった。愛
知川に近い「だいじょうご」と「ちりんさん」「新池」と言う湧き池 には行くことが許されなかった。河童が住んで、深くて、冷たく て・・・・・。愛知川には「うろり」と言うゴリの小さな魚が上流をめ ざして黒い筋になり上がって行った。鮎は立っているだけで足 の指に入ってきたり、蛇籠の洞に手を入れると何匹でも捕まえ られた。秋は柴栗や柿がたわわに生って待っていた。胡桃は 地に落ち,椎の実はポケットに満ち、どんぐりは「どもり」になる からと食べ忌みした。サツマイモは畦から顔を出し、ナンバは 生で食べた甘さは忘れられない。郁子、通草は梢に近く実って いて子供には遠い獲物であった。
背伸びしても 取れぬ実りの 秋の山 峰月
田舎に着くと手頃な棒切れを持ち撓らせて道の両側に生えて
いる菜の花の頭、青草を切り拓くといういたずら坊主だった。タ バコの葉を切ったときはすごく叱られた。一本に何枚の葉が出 ているかを既に数えてあると言うほど貴重な専売品だった。京 都からの疎開の間に借家で私と妹が生まれた。その大家さん の庭に十数メートルの高さとふた抱えほどの肉桂の大樹があ った。少しずつ根を掘り起こして食べていたらなぜかその木が 枯れてしまった。
切り倒されて、割り木にされても肉桂のいい匂いがしていた。
元来丈夫な樹でもなかったのか。肉桂は駄菓子屋でも五、六 本を束にして売っていた。なぜお金を払はなくてはいけなかっ たのかな。思い出した。醤油屋の裏の小川で大きな鯉を見つ け、小さな網と手掴みでやっと捕まえた鯉を隣村の身体の大き な子に横取りされた事があった。身体の弱い病気のお母さん に鯉の身や生き血を飲ませなければいけなかった事はなかっ た と思うけど、私は泣きながら帰った。
秋は落ち鮎という錆色の鮎を子供でも網で捕まえられた。父は
毛鉤を手作りにして鮎を釣った。「どぶ釣り」は深場で鈎針を一 杯付け、何度も何度も竿を上げたり、降ろしたりして。「ころがし 釣り」は長い竿で針をたくさんつけ錘で瀬の底辺りを引きづり 鮎を引っ掛ける。モロコは一匹ずつ釣るよりも「阿保待ち」とい う技法。川藻の切れ目辺りの流れで、透き通った長い網で待ち うけ、「トン」とモロコが入ってくるのを待ち掬うのである。これも 父に教えて貰った。
枯葦に 釣りの座考と 分けゐたり 峰月
私は前妻に実の息子、娘を置いてきてしまったので、もうこれ
らの秘術をわが二世に伝える事はできないのかもしれない。 父母と早世した娘のいる墓は私が入った後、結局絶えてしまう のだろう。
季吟まで 辿る家系図 吾亦紅 峰月
エッセイ 掲載 「父の事」 そのU 北村峰月
肩車の ベレーでありぬ 冬帽子 峰月
あの日は確か象を見ていた。大人が塞ぐ壁の後ろから見えな
い象を見ていたのだ。 ふいに父の姿が見えなくなったのかと 思うと、鼻を振り上げる象が視野にあった。つまり父の肩車の 私は世界で何番目かの背高人でいた。 その頭には冬帽子。 こげ茶色のベレー帽を被っていた。そう手塚治虫の被ってい た、あたかも芸術家のような、お坊ちゃまのような。そうです、 「ぼんよ」「ぼんよ」と育てられました。あの貧乏ながらのお坊ち ゃまのような。「笑えよ ! 」。姉二人妹一人の男子一人の長男 に生まれ大事に育てられました。父とはよく魚釣りに行き、そ の道すがらの草の名、花の名、木の名、魚の名を教えられ、そ れが今に俳句の土台になっているのやも。父は九人兄弟の次 男として尋常小学校を出ると直ぐに京都烏丸仏光寺の塚喜さ んへ方向に上がり、二十五年勤めて別家として独立。京都で 所帯を持ち姉二人は京都仏光寺新町で生まれ、昭和十九年 戦争の影が濃く近寄って来て郷里の能登川町神郷に一家で 疎開。能登川には日清紡があり、機銃掃射があったそうだ。京 都は昭和二十年馬町、西陣、御所、右京区春日、太秦などに 空襲があり、死者三百二人、重軽傷者五百六十一人に及ぶ空 襲が二十回あった。そして京都は原爆投下予定地ながら投下 予定当日が悪天候により中止させられたそうだ。偶然に助かっ たようで、広島、長崎にならなかったと言う次第なのだ。そして 父も私の生まれる前に亡くならずに済んだという訳なのだ。考 えると恐ろしいことだ。京都は原爆投下の第一候補であったの で空襲が無駄になるという事で少なかった背景が。良く言われ る京都は文化財が多いので空襲もなかったことは間違ってい るようです。
折鶴の すべて鋭角 原爆忌 峰月
父は肥桶を担いで行ける近さに畑を借り、食べるだけの野菜
を作り、京都に店を持ち、通いで京染呉服悉皆業をしていた。
春耕や 喰うだけの畑 考の影 峰月
私は父の悉皆業を継ぐつもりでいたのだが、儲からないから
止めろと言われた。父はそんな儲からない商売を死ぬまで続 けていた。
八重葎 考に勲章 与えたし 峰月
私の中学三年の時友人五人で琵琶湖一周のサイクリングに
行く事になった。サイクリング車なんてなかった。普通の実用 車で行くつもりだった。今回はグローブの時とは違い、ねだった のではなく、急に父とサイクリング車を買いに行くことになっ た。シルバー基調のブルートーンのピカピカであった。ダブル フロントライト、三段切り替え。父は無理をしたのだろうな。友 達が乗っている自転車を見ていたので、我が子が哀れに思え たのか、生活は小学校の時代よりは少しの楽になっていたの だろうが・・・・。湖西側から友達の故郷の今津と私の伯父の能 登川に一泊ずつしての琵琶湖一周。この時のメンバーが最近 再会して話をすると、石田川で鮎つかみをした事。発熱のため もう一泊余分にした。一周してからの帰路、逢坂山の下り、走 井餅の近くの陸橋の出っ張りで事故発生。それもその事故は 三人がともに自分自身が起こしたというののも不思議といえば 不思議な思い出。記憶というものの危うさを顧みさせられまし た。
会社に入って三年目、市民検診で肺浸潤と判明。一年半の入
院生活のその間ほとんど毎日来てくれたのは父であった。卵と 肉と果物と当時は贅沢品を届けてくれた。そしてもう一人毎日 来てくれたのは今の妻です。しかし彼女の両親の反対、肺病 病みとはつき合わさないという当時の風潮や私自身の社会復 帰の不安もあり一旦別れさせられた人です。私が五十二歳の 折、長女を十八歳半という若さで肝臓癌で亡くした事情があ り、前の妻と離婚した。その後半年ほどしてからあの別れた彼 女が会社に娘さんの浴衣を買いに来てくれて再会した。あれ から三十年の風雪を経ていた。先方も旦那さんを交通事故で 亡くして一周忌を終えていて、それからのお付き合いで結婚、 今に至っている。父は平成元年六月二十二日に亡くなってい る。私の娘の病気も死も離婚も運命の彼女との結婚も知らず に。
畑端に 考刈り残す すみれ花 峰月
優しい父であった。
エッセイ 掲載 「父の事」 北村峰月
父がふいに弘法さんへ行こうかと言う。終い弘法でもなく、初
弘法でも無い。何回か ねだった グローブを見に行く為であ る。境内の商いの列を何列も廻った。手に取ったグローブは新 品同様であった。値もそれなりであったろう。父は次の店に行 きかけていた。あわてて父にはぐれないように付いて行く。何 度かそれを繰り返したのか。肩を落とした父の背中が夕日の 中にあった。それから私は決してグローブを欲しいとは言わな くなった。
ただ欲しくはなくなったのだ。
秋夕焼 グローブ無い子 球拾ひ 峰月
ある夜五百円札を握り締め、冷たい一升瓶を抱くようにか
かえて近くの酒屋へ量り売りのいつものお酒を買いに行く。路 地の家から出て六条繁栄会へのたった半町ほどのところであ る。今はよく知っている「風花が舞う夜のこと」である。店先の 床机の上に一升瓶を立て置いて、おっちゃんに「いつもの奴、 半分だけ」 と言う言葉を飲み込んだ。握っていたはずの五百 円札が無い。二回三回いま来た道を繰り返し歩いた。今は無 いチンチン電車が三度四度寒い窓から透明の光を引きずって 通って行った。帰れない一升瓶は酒屋に置いたまま。目を凝ら し路面を撫でる。紙片の散るのを見ると風より早く追いつい た。群青色の岩倉具視に会えたらどんなにか嬉しかったと思 う。父が道端にうずくまる私の手を取ってかかえ起こしてくれ た。何も言わず何も問わなかった。家には青いインクの判のつ いた肉のこま切れが入ったコロッケが丸い卓袱台の上で待っ ていた。六人の頭を一つの傘電球の下に集めて誰も何も言わ ずに食べた。
風花の 転べる路面 硬たかりし 峰月
向島の一口の方へ父と魚釣りに行くとよく釣れた。友達と自
転車で竹田街道を下がって行ったときは何も釣れなかった。草 津の下物村の枯葦の中に父と釣座を作り、風の留守の間に寒 鮒を釣ろうとしていた。小春日の中を何時間かして比良の嶺に 日が近ずくと急に寒くなる、その前に近江バスで時々ビタビタ とする魚籠を中紐吊りに帰った。父はバスの客に魚籠を傾げ るように見せた。また鮒はビタビタと跳ねた。一昨年に父の二 十三回忌を修した。
枯葦の 釣座を訪ふは 風ばかり 峰月
小春日の 考の居場所は 竿ありて 峰月
ーデンで俳句の本を編集、出版をされ「世界で一番短い詩」と いわれる俳句は言葉をあまり使わず言葉と言葉の中で表現す る魅力がある。形が出来ていても一句の中にポエジーがない と本当の俳句ではない。スウェーデンにも俳句を作る人が増 え、俳句協会もあるそうです。しかし或る人が使った表現をま た使うのはよくないという考えがあり、季語の持つ共通の考 え、表現の仕方を利用している日本とは違った認識がありま す。 ルが1959年に句集を出しています。またヤーンヴィンテイレス コが英語訳の日本の俳句をスウェーデン語に訳して非常によ く売れたとの事。また同じ1974年のノーベル文学賞作家ハリー マーティソンが中国の短詩や日本の俳句など短い詩に非常に 興味を持った人でした。現在の日本の俳句が、伝統的な形式 や法則にとらわれる余り技巧を凝らすことに始終している感が し、それを抜け出せたら、自分の想像力を使って自分の句が 作れると私は思う。ポエジーこそ俳句の力と結ばれていまし た。私は歳時記の持つ有難い共通の季語という認識は利用す べきだと思います。その上に独自の想像力と記憶力と写生力 を発揮することが大切だと思うのです。この記事の続きに、国 際俳句交流協会会長である有馬朗人氏が「革命をもたらした 日本の俳句」として、はっきりと俳句が流行している国は、アメ リカ、フランス、ドイツ、クロアチア、イギリス、スウェーデン、中 国、ブラジル、セネガルに拡がっている。これらはイギリスの文 学者レジナルド・H・フライスの「俳句」という著書。ケネス・安田 がアメリカで「俳句」を書き、またハロルド・ヘンダーソンによる 「俳句入門」が有名。さらにドナルド・キーンも日本文学をかな り啓蒙しました。また別の流れとして、エズラ・パウンド(アメリ カ)の弟子のノーベル文学賞を受賞したT・S・エリオットが言う 「イマジズム」の原点の哲学が日本の俳句でした。1970年頃か らアメリカの小学校でも俳句を教えるようになりました。また俳 句の持つ「アニミズム」は天・地・海・風・水などに神があり、先 祖を崇拝し、花や鳥を愛する心。また句会も弟子、先生の区別 無く平等に名前を書かず出句する平和平等の精神がありま す。 以上。これらは私の頭の中で選抜したものですから「俳 句界十月号」を読まれることを勧めますが、世界の文学の中で 俳句を考える上でよい記事だったと思います。そしてさらに日 本中に俳句の素晴らしさを広めたいと思ったのでした。
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